挫折を越えて彫り続ける──彫り師RYUのタトゥー人生とこれから – TATTOO JAPAN #9
2025/07/05
タトゥーとの出会いが人生を変え、何度も挫折を経験しながらも、彫り師として第一線で活躍し続けるRYUさん。和彫りを軸に、多彩なアーティストが集うスタジオを築き上げ、今も新たな夢に向かって進み続ける彼女の物語を伺いました。
きっかけは中学生の頃、本屋で偶然手に取った一冊のタトゥー雑誌だった。
当時は学校にあまり通わず、本屋に出入りしていることが多かったというRYUさん。
「その頃はあまり学校に行ってなくて。ちょっと変わった子だったんですけど、本屋によく出入りしていて、そこでタトゥー雑誌に出会って、タトゥーという存在を知ったんです。」
当時の地元は田舎で、タトゥーは今以上にアンダーグラウンドな存在だったため、
身近に見る機会はなかった。だからこそ、雑誌の中で見たタトゥーのデザインや彫り師たちの写真は、
RYUさんの心を強く揺さぶった。
「タトゥーというだけで、すごく衝撃を受けたんです。あの頃の自分には全てが新鮮でしたね。」
もともと絵を描くことが大好きだったRYUさん。
学校の勉強は苦手でも、絵を描く時間だけは無我夢中だったという。
「もともと絵を描いたりするのは好きで、子供の頃から一日中描いていました。勉強は全然できなかったんですけどね。」
雑誌を読んだ時も、「彫り師になりたい」という考えはなく、「大人になったら自分が入れたい」という気持ちだけだった。そして20歳の誕生日を迎えた頃、右腕の肘下まで龍のタトゥーを入れた。
和彫りや洋彫りの知識もなく、ただ自分の好きなデザインを形にしてもらっただけだったが、その施術の体験が、RYUさんの心に火をつけた。
「入れてもらってから『あ、これだ』って思ったんです。これが自分のやりたい仕事だって。」
初めてのタトゥーを入れてから、RYUさんはすぐに彫り師を志したが、しかし当時、彫り方を教えてくれる師匠も知り合いもおらず、学べる場所はどこにもなかった。最初の道具はYahoo!オークションで揃えたそう。
「最初は自分でYahoo!オークションとかで道具を揃えて、自己流で練習していましたね。」
当時は今のような練習用のフェイクスキンもなかった。ネットで調べて「みかんや大根で練習する人もいる」と知ったが、最初に彫ってくれた彫り師に「そんなのじゃ意味がない」と言われた。
「やっぱり実際の肌で練習しないとダメだって言われたので、自分の足に彫るしかなかったんです。」
最初に自身で入れたのは、目立ちにくい踵の小さなレッドデビルだった。皮膚が固く、神経が集まる場所で痛みは想像以上だったが、怖さよりも「早く上達したい」という気持ちが勝った。
「正直、綺麗に入ったかどうかすらも分からないレベルでした。でも試さないと分からないので、怖いよりもやってみたい気持ちの方が大きかったです。」
不安と痛みを超え、自分の体をキャンバスにして学んだ技術が、その後の基盤となった。
独学を数ヶ月続けた後、RYUさんは本格的に師匠を探した。初めてのタトゥーを入れてくれた彫り師に何度も弟子入りを頼んだが、「弟子は取らない」と言われ続けた。
「お願いしてもずっと断られて。どうしても学びたくて、ネットで見つけた栃木のスタジオに応募しました。」
面接を受け、履歴書を持参して見習いとして入れてもらった。だが待っていたのは、ひたすら掃除と雑用の日々だった。
「最初はとにかく掃除でした。先輩や師匠のブースの片付けもして、彫る練習はほとんどさせてもらえなくて。自分の足に彫って見せると『刺しすぎだ』って怒られるだけでした。」
厳しい上下関係の中で、技術を学ぶ機会は与えられなかった。それでもいつかチャンスが来ると信じていたが、ある日突然メールで「もう来なくていい」と言われた。
「破門って言われたときはショックでした。自分に足りないところがあったんだと思います。
でも、あの経験がなかったらメンタルは鍛えられてなかったです。」
スタジオを追い出された後、すぐに次の場所は見つからなかったが、RYUさんは諦めず、いつか自分の店を持つと心に決めていた。
破門のあと、神奈川のスタジオで数年修行したRYUさんだったが、環境の変化や資金の問題で続けられなくなり、一度は地元福島へ戻る決断をした。ただ、帰るだけでは終わらせたくなかったという。
「当時はお金がなかったので、借金してでもお店を出そうと思ったんです。最初からちゃんと店舗を借りてやってました。田舎なので家賃は高くなかったですけど、それでも大変でした。」
最初のスタジオの集客は、ブログの更新とお客さんの紹介が中心だった。資金も集客も簡単ではなかったが、転機となったのは震災後に福島に来た除染作業員だった。
「地震の後に除染作業員の方がたくさん来て、その人たちがタトゥー好きな方が多かったんですよね。運が良かったと思います。」
地元では昔からやっている彫り師が強く、新しい店はなかなか浸透しないのが現実だった。だが、除染作業員は地元の事情を知らず、口コミで自然と新規客が増えていった。
福島の店は4年間続いたが、RYUさんの心にはずっと「もう一度東京で挑戦したい」という思いが残っていた。
「横浜で失敗して、逃げるように帰ってきたのが悔しかったんです。福島で長くお店をやるつもりはなくて、どちらかと言えば修行みたいな感覚でした。リベンジの意味も込めて、新宿で「Fuga」を出そうと思ったんです。」
新宿に「Fuga」を構え、最初は1人でオールジャンルを彫り、少しずつ弟子を育ててチームは3人に。さらに原宿に「Crystal Tattoo Shop」をオープンし、今では10人の多国籍アーティストが集まるスタジオになった。
今では英語対応の受付やアーティストもいて、観光客の飛び込みも多い。
「英語も含め、私ができないことをみんなができるんです。今のスタジオは得意不得意をうまく助け合あえていける良い環境になってると思います。」
今後の目標は渋谷にもう一店舗を出すこと。
「海外のように多国籍でトップクラスの彫り師が集まるスタジオを作っていきたいです。」
最後に、RYUさんにとってタトゥーとは何かを聞いた。
「タトゥーとは…私の人生そのものですね。タトゥーがなかったら何をしてたか想像もできません。
失敗続きでしたけど、これしかないって思ってここまで来ました。」
多様な仲間と共に、RYUさんはこれからもタトゥーと共に生きていく。